アユタヤ旧市街は、東をPasak川、西と南をChaophraya川、
そして、北側をMuang運河で囲まれています。
そして、この寺院は、Muang運河の北側(下図 赤〇印部)に位置します。
この寺院の名前のPhramaneは、Phra Meruが訛ったもので、
Phra Meruは、古代インドの世界観の中で、宇宙の中心に聳える聖なる山、メール山を指します。
サンスクリット語で、スメールで、日本に伝わった呼び名は、須弥山です。
Naは、タイ語で前と言う意味で、須弥山の前のお寺を意味します。
他のサイトを見ていると、このメール山は、国王の葬儀場を指すと説明がありました。
この寺院の説明板です。
1503年、Ramathibodee 2nd王の時代に建立されました。
写真は、本堂の破風です。
その破風の拡大写真です。
ガルーダに乗るナライ神の彫刻があり、
ナライ神は、ヒンドゥー教のヴィシュヌ神を指します。
また、ガルーダは、アユタヤ王朝以降、タイの王朝のシンボルで、
1911年には、国章になっています。
そして、本堂の内部です。
本堂の奥には、
シーサンペット・ボーロム・トライローカナート仏が
祀られています。
その
シーサンペット・ボーロム・トライローカナート仏
です。
アユタヤ時代の仏像の特徴となっている
王冠をかぶり、王の正装を身に付けた宝冠仏座像で、
降魔印を結んでいます。
この宝冠仏は、
ジャンプパティ王が仏教に帰依した話を
表しています。
誇り高いジャンプパティ王は、
仏陀が粗末な法衣を身に付けていたので、
説法に耳を貸そうとしませんでした。
そこで、仏陀は突然「全王の王」の姿で現れ、
その豪華さに衝撃を受けたジャンプパティ王は、
自分の卑小さを知り、仏教に帰依しました。
しかし、実際には、仏陀を王の姿で表現する事により、
アユタヤ王の権威付けに利用したのではないかと思います。
また、本堂の東側横、後方に
Viharn Noiと呼ばれる礼拝堂があります。
その説明です。
そのViharn Noiです。
Viharnは礼拝堂、Noiは小さいと言う意味で、
よって、小さい礼拝堂です。
そのViharn Noiの入口です。
その内部には、Khandhararat仏が祀られています。
スリランカから運ばれて来たと伝わる
緑砂岩でできた仏像です。
椅子に座しており、ドヴァラヴァティ時代、
1500年前に作られたと言う事です。
内部の漆喰の壁には、
ジャータカ物語が描かれています。
入口の木製のドアの彫刻です。
この寺院のすぐ南を流れる
Muang運河(Klong Ku Muang)です。
Muang運河に架かる橋の上から西を見たところ。
橋の上から東を見たところ。